あったようななかったような

日本航空123便墜落事故:<日航機墜落>事故から32年、薄れていく記憶のメモとして

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いままでひとに話したことも文章に書いたこともなかったのだけど、毎年、だんだんと薄れていく記憶のなかで覚えていることだけでも書いておこうと思う。

ので、断片的で紋切り型でそっけないメモ程度だろう(本当はあまり思い出したくないのだった)。

見る人もほとんどいないこういうブログにこういう備忘録を書けるのは幸せかもしれない。昔はなかったからね。

 

 

あのとき、大きな放送局の報道部に勤務していた。ひよっこだ。

報道部というのはデスクにいるときは、事件のないとき、仕事のないとき、つまりひまなとき。

その日ももうお盆休みに入る、入った、ひとも多くてわりとひっそりしていた。大きな懸案もないし、定時に帰れそうだと支度をしながらぼんやりしていた。

6時半過ぎくらい、まだニュースに出るずっと前に、ある筋から電話が入った。この電話は特殊な電話で一般回線を使わない。大規模停電になろうが、テロが起きようがなにしようがあることをすれば必ずつながるようにできている。ただし、話せる相手は限られている。

その電話は赤く塗られていて、人が立つ高さくらいの所に設置されていた。どこからでも見えるからだ。電話の横には長い棒が刺さっていて、その先に赤いランプがついていた。そのランプが点灯するときは、要するに非常事態を意味する電話(名前があったが秘密)があるところからかかってきていることを意味する。

あ〜いやな予感が当たった。

実はその前にちょっと報道部のなかでもっと早くどこかからなにかをつかみかけていた人がいたようだった。なぜわかるかというと、「そのひとは足早になる」。

 

日航のジャンボが、いなくなったらしい。。。

 

なぜそういう早い時間にそういう情報をつかめてしかも電話してきてどうなっているのか情報収集が始まるのか、はっきりしたことは言えないしわからないことも多い。

ただ、いまのような情報化社会でないあの時代に、そういうシステムがあり、しっかり機能していたというのが驚きではないだろうか。

もうそのころ、羽田では管制塔が大変なことになっていたし、こちらに情報を共有してくれるようなひまも余裕もない。

ので、

「機影がレーダーから消えた」

ということしかわからず、

事故か

ハイジャックか

わからない状態が続いた。

事故でもハイジャックでも大変なことだ。

身体がぞーっとした。

 

どうすりゃいいんだよ

 

途方に暮れた記者たちがバタバタしていた(こういうときの心理として席には座っていられない)。

本来なら、静岡方面に飛ぶはずが飛んでいない、その辺か大阪方面までの間(遠くないところ)に落ちるなら落ちているはずだ。

というのがひとつの考え方。地図を広げ範囲を検討する。

太平洋岸に墜落した可能性もあった。熱海の南とか。

もうひとつ、ハイジャックという考え方。

中東やアジア、外国方面へ強制的に飛行させられるとして、油が足りない。たっぷり積んでいる飛行機をなぜ選ばなかったのか。

この間、10〜15分程度。

45分すぎくらいに、行方不明がはっきりした。

 

このあと、各放送局がテロップを出し始めたのかと思っていたが、調べてみると実際に各局が出し始めたのはもっとずっとあと、19時30分過ぎくらいからだったようだ。

この間、なにをしていたのか、実はもうよく覚えていない。

 

この間のどこかで、ハイジャックではなくて墜落した可能性が高いというのがわかってきて、ところがどこに落ちたのかがぜんぜんわからなかった。見つからないのだ。

こんな狭い日本で見つからないというのが不気味だった。

 

一般的にニュースの速報を早く出す局は、速さが勝負。遅く出す局は信憑性が勝負。あとは単に手順的に遅くなってしまった局。

信憑性を重視する局は、ダブルで裏を取るのでその分確実な情報を得る。が、そのぶん時間がかかり遅くなる。

 

けれども、このときはちょっと違った。

NHKが早かった。もうこの時間だから確実な情報であると確証を得ていたのだ。そして、わかっていることだけ

「羽田発大阪行き日航機レーダーから消える」

日航機には乗客497人が乗っている」

というテロップを流した。早かった。

こういうときの底力はたいしたものだと思う。感動すらするときがある。

 

民放各局はその後、数分のうちにテロップを流し始め、いよいよ本当に大変なのことが起きたと人々が知ることになっていく。

 

あのドタバタのなかで、各局がそれぞれどういう一報以降を出し続けていて、どこが正しくてどこがあやふやか、なんてどこの局も見ていないし考える余裕もなかった(と思う)。

報道はどこでも各局のテレビをすべて(だいたい)いつもつけていて見ることができる。テロップの誤り、誤報、訂正、言い換えが多かったような気がした(だれも気にしていなかったけど。報道の記者は他局の報道を信じない)。

 

いやに冷静だったのを覚えている。

もう帰れないな

夏休みないな

 

 

 横山秀夫という作家が「クライマーズハイ」という小説を書いて(読んでない)そのドラマをちょこっとだけ見たことがあるのだけど、おおむねあんな感じのドタバタ興奮混乱状態が続く。


この本。有名ですね(この本は新聞社でしたかね、新聞社も同じですね)。

報道部というのは、事件が起きると(まあ起きなくても)品がなく、粗野で粗暴で知性のかけらもない(ようなふうに感じてしまう)サガがある。

そういう人々が集まってくる、というよりも、あそこにいると習性的にああなる「ような気がする」。

 わたしは元々、殺気だった人が苦手だ。おとなしく内向的。それがこういうところにいるというのは非常に大変だった。人じゃなくて人々。部署内が暴徒化していた。

 

翌日、あの事故がだんだん明るみになってわかってきてからは、普通の人が知っているような大混乱になっていくのだけど、その前に始まっていた不気味な幕開けは、一生忘れられない。

 追記:実は、このコラムはかなりの部分を削っている。書けない内容、書けないことがたくさんあったということだ。それで、ひとつ気がついたことをまた備忘書きしておきたいと思う。

報道はこういうとき、局所的ではあるものの本当に命をかけなければならないときがある。それは、けっこう「突然、突破的に選択の余地があまりなく」訪れることが多い(選択できることも確かに多い。現場に行くか行かないかなど。でも、断ったらどうなるのかなあと思いますね)。

常日頃、報道に対する姿勢などが取りざたされたりして、確かにいろいろなことがあるとは思うのだけれど、こういう極限の状況の中で、ひたすら報道する使命を担った者たちがいた(いまもいる)ことをこれを読んでちょびっとでも思ってくれたら、わたしはうれしい。