あったようななかったような

日本航空123便墜落事故:<日航機墜落>事故から32年、薄れていく記憶のメモとして

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いままでひとに話したことも文章に書いたこともなかったのだけど、毎年、だんだんと薄れていく記憶のなかで覚えていることだけでも書いておこうと思う。

ので、断片的で紋切り型でそっけないメモ程度だろう(本当はあまり思い出したくないのだった)。

見る人もほとんどいないこういうブログにこういう備忘録を書けるのは幸せかもしれない。昔はなかったからね。

 

 

あのとき、大きな放送局の報道部に勤務していた。ひよっこだ。

報道部というのはデスクにいるときは、事件のないとき、仕事のないとき、つまりひまなとき。

その日ももうお盆休みに入る、入った、ひとも多くてわりとひっそりしていた。大きな懸案もないし、定時に帰れそうだと支度をしながらぼんやりしていた。

6時半過ぎくらい、まだニュースに出るずっと前に、ある筋から電話が入った。この電話は特殊な電話で一般回線を使わない。大規模停電になろうが、テロが起きようがなにしようがあることをすれば必ずつながるようにできている。ただし、話せる相手は限られている。

その電話は赤く塗られていて、人が立つ高さくらいの所に設置されていた。どこからでも見えるからだ。電話の横には長い棒が刺さっていて、その先に赤いランプがついていた。そのランプが点灯するときは、要するに非常事態を意味する電話(名前があったが秘密)があるところからかかってきていることを意味する。

あ〜いやな予感が当たった。

実はその前にちょっと報道部のなかでもっと早くどこかからなにかをつかみかけていた人がいたようだった。なぜわかるかというと、「そのひとは足早になる」。

 

日航のジャンボが、いなくなったらしい。。。

 

なぜそういう早い時間にそういう情報をつかめてしかも電話してきてどうなっているのか情報収集が始まるのか、はっきりしたことは言えないしわからないことも多い。

ただ、いまのような情報化社会でないあの時代に、そういうシステムがあり、しっかり機能していたというのが驚きではないだろうか。

もうそのころ、羽田では管制塔が大変なことになっていたし、こちらに情報を共有してくれるようなひまも余裕もない。

ので、

「機影がレーダーから消えた」

ということしかわからず、

事故か

ハイジャックか

わからない状態が続いた。

事故でもハイジャックでも大変なことだ。

身体がぞーっとした。

 

どうすりゃいいんだよ

 

途方に暮れた記者たちがバタバタしていた(こういうときの心理として席には座っていられない)。

本来なら、静岡方面に飛ぶはずが飛んでいない、その辺か大阪方面までの間(遠くないところ)に落ちるなら落ちているはずだ。

というのがひとつの考え方。地図を広げ範囲を検討する。

太平洋岸に墜落した可能性もあった。熱海の南とか。

もうひとつ、ハイジャックという考え方。

中東やアジア、外国方面へ強制的に飛行させられるとして、油が足りない。たっぷり積んでいる飛行機をなぜ選ばなかったのか。

この間、10〜15分程度。

45分すぎくらいに、行方不明がはっきりした。

 

このあと、各放送局がテロップを出し始めたのかと思っていたが、調べてみると実際に各局が出し始めたのはもっとずっとあと、19時30分過ぎくらいからだったようだ。

この間、なにをしていたのか、実はもうよく覚えていない。

 

この間のどこかで、ハイジャックではなくて墜落した可能性が高いというのがわかってきて、ところがどこに落ちたのかがぜんぜんわからなかった。見つからないのだ。

こんな狭い日本で見つからないというのが不気味だった。

 

一般的にニュースの速報を早く出す局は、速さが勝負。遅く出す局は信憑性が勝負。あとは単に手順的に遅くなってしまった局。

信憑性を重視する局は、ダブルで裏を取るのでその分確実な情報を得る。が、そのぶん時間がかかり遅くなる。

 

けれども、このときはちょっと違った。

NHKが早かった。もうこの時間だから確実な情報であると確証を得ていたのだ。そして、わかっていることだけ

「羽田発大阪行き日航機レーダーから消える」

日航機には乗客497人が乗っている」

というテロップを流した。早かった。

こういうときの底力はたいしたものだと思う。感動すらするときがある。

 

民放各局はその後、数分のうちにテロップを流し始め、いよいよ本当に大変なのことが起きたと人々が知ることになっていく。

 

あのドタバタのなかで、各局がそれぞれどういう一報以降を出し続けていて、どこが正しくてどこがあやふやか、なんてどこの局も見ていないし考える余裕もなかった(と思う)。

報道はどこでも各局のテレビをすべて(だいたい)いつもつけていて見ることができる。テロップの誤り、誤報、訂正、言い換えが多かったような気がした(だれも気にしていなかったけど。報道の記者は他局の報道を信じない)。

 

いやに冷静だったのを覚えている。

もう帰れないな

夏休みないな

 

 

 横山秀夫という作家が「クライマーズハイ」という小説を書いて(読んでない)そのドラマをちょこっとだけ見たことがあるのだけど、おおむねあんな感じのドタバタ興奮混乱状態が続く。


この本。有名ですね(この本は新聞社でしたかね、新聞社も同じですね)。

報道部というのは、事件が起きると(まあ起きなくても)品がなく、粗野で粗暴で知性のかけらもない(ようなふうに感じてしまう)サガがある。

そういう人々が集まってくる、というよりも、あそこにいると習性的にああなる「ような気がする」。

 わたしは元々、殺気だった人が苦手だ。おとなしく内向的。それがこういうところにいるというのは非常に大変だった。人じゃなくて人々。部署内が暴徒化していた。

 

翌日、あの事故がだんだん明るみになってわかってきてからは、普通の人が知っているような大混乱になっていくのだけど、その前に始まっていた不気味な幕開けは、一生忘れられない。

 追記:実は、このコラムはかなりの部分を削っている。書けない内容、書けないことがたくさんあったということだ。それで、ひとつ気がついたことをまた備忘書きしておきたいと思う。

報道はこういうとき、局所的ではあるものの本当に命をかけなければならないときがある。それは、けっこう「突然、突破的に選択の余地があまりなく」訪れることが多い(選択できることも確かに多い。現場に行くか行かないかなど。でも、断ったらどうなるのかなあと思いますね)。

常日頃、報道に対する姿勢などが取りざたされたりして、確かにいろいろなことがあるとは思うのだけれど、こういう極限の状況の中で、ひたすら報道する使命を担った者たちがいた(いまもいる)ことをこれを読んでちょびっとでも思ってくれたら、わたしはうれしい。

介護でいちばん難しくて、いちばん大事だと思ったこと。

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母を何年か介護した。

母は、じょじょに衰え、じょじょにやれることが減り、じょじょに寝たきりになっていった。

背骨の手術や膝の人工関節の手術をしていくたびに歩くことが難しくなり、それでも、痛みがひどくなるよりは、と手術をしたので、本来は、リハビリで日常生活に困らない程度に回復していく「はず」だった。

 

けれども、老年の衰えている身体に手術などの刺激やその後の安静状態はかなり負担で、そこからの復活は、行動できる可動範囲のラインが(あるとすれば)マイナスになっていったところからの出発が積み重なって、結局、じょじょにラインは下がっていった。

 

だんだんと、できなくなっていったり、やる気が失せていったり、いままで楽しく見ていたテレビ番組をあまり見なくなっていった。

 

そういうことが半年くらい顕著になり続けていたあいだ、わたしは、「叱咤激励」をしていた。

 

「術後の回復は、その後のリハビリにかかっている」という、一般論に執着した。

 

でも、これは、要介護の人々に関わるデイサービスの方々もいつも言っていることで、間違ってはいないと思う。

 

もっとね、食べないと、だいぶやせちゃったでしょう。お野菜も嫌いだって言ってないで、少しは食べようね。

 

毎日のちょっとだけの運動でも、少しずつよくなっていくんだよ、ほら、立ったり座ったりしようね。

 

お昼寝ばかりしていると、夜眠れなくなるでしょう、それで、眠れないって悩むのはだめだよ〜、いま起きていないと。

 

お菓子ばかり食べていても、栄養にならないよ、ご飯のときにお腹がすかなくなるでしょう。

 

 

ただ、決定的に見落としたことがあった。

半年くらい経ったときに、衝撃的に気がついた。

 

これらの「叱咤激励」は、母のためになっているだろうか。

 

母は、がんばって回復したいのだろうか。

そうじゃなくて、できる範囲のことをして、ゆったりと過ごしていきたいのではないだろうか。

 

そのとき、わたしは

見守っていない

ことに気がついた。

 

見守ることがいちばんの介護なんじゃないだろうか。

 

なるべくできるだけ(といっても危ないことやよくないことは別だけれども)口を出さず、本人の過ごしたいようにして、「放っておく」「やりたいようにさせておく」、そうして、それを「そばで見守っていく」(知らん顔するのではなくて)というのは、案外と精神的な力が必要だということにも気づいた。

 

そうでなくて、口を出し、手を出し、かまい、あれこれと「こちらのさせたいように」「こちらのなってほしい状態にさせたい」がために強制的になにかを「する」ほうが、「しない」ことよりも楽だ。

 

あえて母の生活に介入せず、見守るということは「無作為の作為」といった言葉に近いように思う。

 

「積極的に行為しないことをする」のは、パワーがいる。食べたくないものを無理に食べさせようとせず(もちろん、食べそうなものを用意したり、量を加減したり、調理を工夫したりはベストを尽くす)、本人の意志を尊重して、しかも、こちらとしては、不機嫌にならず(当たり前だ)慈しみを持って(こちらの意志に反していても)対応する、の繰り返しを忍耐強く続けていく。

 

そうすると、気がついたら、少し母の表情や、言葉や行為がおだやかになっていた。

やはり、わたしの「こうしたらいいのに」とか、「こうすればもっとよくなるはずだ」といった、押しつけがプレッシャーや負担になっていたのだと思った。

 

これは、非常にデリケート・繊細な事柄なので、

 

「そんなこと言ったって、なかなかそうはいかない」

 

的な、心の、まあ言ってみれば、よけいなこと、介護の実際には現れにくい、「行間」のようなものだから、このまま(読んでくれたというだけどすごいことだと思うが)ハタと引っかからずにスルーしてしまう人も多いと思う。

 

けど、これが、わたしはいちばん大事なことだったなあと、母がいなくなったいまは思うよ。

 

 

わたしはUFOを目撃した(と思う)。

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いままでだれにも話したことはないのだけど、わたしはUFOを見たことがある(と思う)。

 

だれにも話していないのは、こういった分類の話はあまりにあやしいカテゴリーに入るからだ。

 

話そうかと思ったことは一度もないけれど、例えば、話をすることを考えたときに、

 

本人はものすごく本気で本当だと思っていて、しかも、勇気を振り絞って、これはという信頼できそうな人に話そうとしているのに、

 

ふーん、そうなの。

とか、

 

へえー。

とか、

 

まじー?

とか言われて、よくてその場で終わるか、または、「ヘンな人」レッテルが貼られるのがオチ(だと思われる)からだった(わたしは普通の人でありたい。分別のある人、世間になじむ人、社会に溶け込む人でありたいと願っている(そうかどうかは別として))。

 

たぶん、

 

だれも、本気では聞いてはくれないだろうし(薄ら笑いとか)、こうしてついに話そうかな、と思っている本人も、実は、ほんとかなといつも自問自答してきた人生の課題でもあったからね。

 

 

ず いぶんと昔のことなのに、やけに鮮明に覚えているのは、やっぱり異常な光景だったからなんだろうなあと思うのと、それ以降、なんども思い出すことは、実 は、ないのだけれど、印象が何回かに分けて(以下で言うところのものを観て)、脳内で確認作業をしてきているからかなあと思っている。

 

中学生くらいの時で、夕方から日没、そして夜になるちょうどの時間、夏で、いいお天気だった(雲などがなかったという意味)。

 

イメージ図を書いてみちゃったのだけど、これよりも下の方は少し明るかった。道路の常夜灯と、それから日没直後の太陽の名残があった。

 

だ いぶ離れてはいるのだけど、羽田空港の発着便がけっこう頻繁に空を飛んでいるので(羽田空港の方角をたまたま見ていて、羽田空港の方角に現れた)、飛行機 やヘリコプターの動きは一定で、わかりやすく、飛んでいく方角もある程度は決まっていた(太平洋へ出るのはこちらへはこない、関西の方とかのが頭上を越え ていく。方向音痴なので方角がわからない・・・)。そのころは成田空港がなかったので、飛行機の数も多かったように思う(10分以下おきくらい。発着待ち のような旋回モードの飛行機もあった)。

 

日が沈んで、しばらくして、へんなオレンジ色の光が上空に止まっているのを見つけた。

そのとき、友達と二人で川の土手で話をしていて、そこは見晴らしがよく、空が一面に見えて、わたしたちはときどき青春のお話などをしていたのだった。

 

友人もあれ、へんだね、と言った(なにがヘンだったのか、具体的には言わなかった)。

 

このあとの動きは、まさにヘンなのだけど、このときを表現するのに、一番ふさわしいのは、「未知との遭遇」という映画だ。

あれを観たときに、ものすごい衝撃を受けた。わたしたちがこのときに見たものと、酷似していたからだ。

 

特に、最初、遠くに現れる場面は似ていた。ただ、私たちが見たものには、音がなかった。まったく音がない。

 

オレンジ色の光も明るかった。まぶしいほどではないが、はっきりとオレンジ色が空に浮かんでいるというのはかなり異様だ。

が、いきなり消える。そしていきなりつく。そしていきなり増える。色もいろいろなのがあった(忘れたが白もあった。そんなにバリエーションはなかったと思う)。そしていきなりぱーっと分かれる。そして、いきなり、移動する。

 

線で移動しない。点で移動する。これらが大変短い時間で起きる。ほんの15分くらいのことだったと思う。

 

わたしと友人は、その間、ほとんど口をきかなかった。ただ、凝視していた。まるでわたしたちだけが「それ」を見ているかのようだった。

 

周りには、ほかに人がいなかった。

 

その空の下に道路があり、車がたくさん走っていたが、だれも止まらないし、気にもとめていない。だれも見ていない、となんとなく思ったのを覚えている。

 

ほんとうに見えているのだろうか。これって、なんか花火とか。このときに初めてちょっとドキドキしてきた。

 

このことを話すのはあまりにばかげているのじゃないかと、思ってしまうのは無理ないと、ここまで書いてきてつくづく思う。だれも信じないでしょう。ほんとうは、わたしもどこかで、信じてこなかったのかもしれない。

 

この目撃は、さっきの「未知との遭遇」映画よりもずっとずっと前の話だ。

 

その映画とは、オレンジ色の物体というのも、あとで色が変わるのも、いきなり移動するのもよく似ていた。動きが似ていた。

 

ただ、どーんと飛行機のように頭上を飛んでいくというのはなかった。それから、音がない不気味さというのがあまり言われていないかなあと思った。

 

このあと、実は、「それ」はいきなりわたしたちの頭上にいた。なぜいたのか、どうやって「来た」のかぜんぜんわからないのだった。

 

心臓がばくばくしていた。

 

頭上ということは、わたしたちは見上げていた。円盤(のようなもの)のハラが見えた。すごく低かったように見えた。そして大きかった。ものすごく大きかった。円盤かどうか、形はわからないくらい大きかった。

 

なんだか、覆われたっていう感じだったが、風も音も、重さも怖さもなにも感じなかった(固まった)。

 

たぶんだけど、かなり大きいイメージがあった。そのときはぜんぜんなにも考えていなかった。グレーの濃い色、黒に近いような(暗いからかも)色の底だった。

つるっとしていなくて、いろいろなものがあった(ように見えたけどわからない)。光っているものはなかったと思う。

 

そして、30秒くらい(この30秒はかなり長い)でパッと消えた。

 

その後、E.Tでも似ているなあと思ったし、円盤系が登場する番組など(あまり見ない。知らない。せいぜいX-ファイル)を見ていると瞬間瞬間で思い出すことがあった。

 

「未知との遭遇」では、We are not alone. ていうサブキャッチがあったけど、わたしは、

「目撃したのはわたしたちだけじゃあない」

と理解していた。

 

あのすごく軽い動きというか、直線移動的なぱっぱっぱと移動していく特殊さは、ただ、円盤が漫然と飛んでいるというのからはほど遠い俊敏さだった。

 

友人とわたしは、「それ」が消えたあと、

 

いまのって、UFOみたいだよね。

そうみたいだったね。

 

帰ろう。

 

と言い合って、なぜか走って帰った。

 

そして、いまでもつきあいのある親友だけれど、いまだかつて、そのときのことをお互いに話したことはない。

もちろん、帰ってから親にも話さなかった(笑われるというよりも、自分がヘラヘラしそうだった)。そのくらいアンビリーバブルなことだった。現実とは思えなかった。

 

ここに初めて、「UFO(たぶん)目撃の告白」を書こうと思ったのは、いつかはどこかに記録として留めておきたいという気持ちが、つねにあったから。

 

もしも、日頃のわたしをよく知っている人が、実は、わたしはUFOを見たことがあると名乗り出た、ことを知ったら、

 

あの、まじめな人がね〜。

 

というだろう(まるで犯罪者か容疑者かのようなアレ)。

 

 

このたび、書いてみて、つくづく思ったが、

 

あ〜さっぱりした。

 

 

小さな小さな薬草園の悩み

今週のお題「植物大好き」

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わたしはハーブが好きだ。ハーブは薬草なので、うちの小さな庭は小さな薬草園のような品ぞろえだ。

 

はっきり言って、ハーブ以外の植物には興味がない。が、ハーブに執着しているので植物大好きという大きなくくりの中に、しっかりと収まっている自信はある。

 

ハーブは、今ではかなり一般的になってきていて、そこここで(園芸屋さんやスーパー、花屋、さらにホームセンターでさえも)ラベンダーだのミントだの、ローズマリーだのが売られているし、ちょっと道を歩けば、軒先や庭先、玄関先などの「先っぽ」でよく見かける。

 

そして、風がそよいだり、触ったりするとハーブ成分の豊かな芳香があたり一面に広がり、それはそれは一瞬で、そこらへんが北海道の草原になる(ような気がする)。 

 

ただ、ハーブは、なりというか存在そのものが非常に地味なのだ。

見た目はただの草といっていいと思う(ひいき目に見ても。ひいき目に見ない場合は、間違えて引っこ抜いてしまう=雑草)。

 

そう、ハーブはもともと雑草に近い。そこら辺に生えていた草や木が、人間や動物に有用だということがわかったのだから、いわば野草だ。

わたしがハーブの栽培その他を始めた頃はいまからもう30年くらい前なので、ここら辺(うちの近所のこと)ではだれも知らないし、都会でも今で言うところの「オタク」といったかわいいものではない「変わり者」と言っていいくらいの植物人(そういうジャンルがあれば)しか、ハーブなんて知らなかったし(想像)、ましてや「ハーブを育てる」なんて、最先端農家(そういうジャンルがあれば)くらいだった(と思う)。

  

このような「だれも知らない」かつ「地味」なハーブを庭(軒先、庭先、玄関先などの先っぽ含む)に植えるとどういうことになるか。

 

ただの雑草が生えた庭および軒先や庭先、玄関先などになる。

 

「どうしてちゃんと雑草を引っこ抜かないのかしら」

「毎日、庭に出て世話をしているようだけど、なんにも花、咲かないわねえ」

「園芸が苦手なのかしらね、一生懸命やっているみたいだけど」

 「これが花?ちっちゃいわねえ、なんでもっときれいな花が咲くのを植えないの?」

「つまんなくない?」

 

自分で満足して、香しいハーブの香りに包まれて、毎日幸せなのだから、それでいいの。

 

ただ、秋から冬のシチュエーションは、さらに厳しい。

ハーブは日本で、四季を通じて元気はつらつという品種は、樹木系を除いては少なくて、オリーブや鍛え抜かれたユーカリローズマリー、あきらめて自生を始めた月桂樹、気温が下がると夜な夜なビニールハウス(と呼ぶビニールがかかっている段々スペース)に移動させるレモンマートルなどは緑色でいてくれるものの、葉っぱ類はだいたい枯れる。一年草も多いのでいつもまにか枯れる、いなくなる。

 

ので、かわいい小さなハーブ園はあっというまに枯れ野になる。

 

 

 「これってなんにも植えないでいいの?」

「これってどうなってるの?」

「庭いじりやめたの?」

「ハーブって、どこ?」

 

いいの、春になればまた新しくこぼれ種が芽を出し(出さない場合は、園芸店へ買いに行く)、あっというまにハーブ園になるの。

 

 そういう草むらのような庭が、近所のおうちにあったら、それはきっとハーブ園だ。

 

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野良猫。

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茶トラ(ありふれているが、そう命名。あまりそういうことに気持ちを入れるこころのゆとりもやさしさも、時間的なひまもなかった。慈愛に満ちての行為ではないと言うことだったというのがこの名前からもわかる)という性別不明(女の子だと思っているが、はっきりと確認していない。去り際が速いので後ろ姿がよく確認できない)のキジトラが、去年くらいから小さな小さな庭に来るようになった。

去年、一度、植木鉢の受け皿の小さいのにうちの猫が食べ残した(ごめんね)ドライフードをのせてあげたら、ぺろっとたいらげた。

うちの猫は、だいぶドライフード「ずれ」していて、選り好みが激しく、すぐに飽きてしまったりするので、日頃からとてももったいないと困っていた。

そして、あっという間に、一日一回、ドライフードをあげる習慣ができあがった。

 

茶トラには感謝の気持ちでいっぱいで(うちの猫の自堕落な生活の後始末をしてくれるので。が、のちに茶トラ専用のドライフードを購入するはめになっていった)いつもありがとうね、と話しかけていた(このころはかなり純粋な感謝の気持ち。たぶん、お互いにいい人(猫)なんだろうなと感じ合っていたと思う)。

 

家族は、ノラネコにえさをやるのに大反対していて(倫理的な問題)、さらに悪いことに茶トラは、お友達を連れてくるようになった。

 

白地に黒と薄い茶色から濃い茶色までの大きな肉屋の包み紙のような楕円に近い島々が点在する柄の、大きな猫だけど、茶トラよりもずっとずっとおとなしいその子(もうおとな。性別には申し訳ないが興味がない)は、いつも茶トラの後ろに下がっていて、もしも、茶トラが食べ残したりすると、受け皿のえさにありつけるシステムになっていた。

 

そのため、茶トラが食べるよりも「かなり多めに」(満腹以上に茶トラは食べようとがんばるので)受け皿にえさがのる必要があった。

受け皿をふたつにする作戦は、もちろん、茶トラの威嚇攻撃により、ふたつとも茶トラのえさになるのだった。

茶トラをあまりかわいいと思わなくなった(少しかわいいと思い始めていたのだ)。みんなで仲良くしようという気持ちが全然ない。

けれども、ノラ=野生の世界は厳しいので、それは当然なのだった。現にブチ(あとから来るようになった弱気の大きな猫をこう命名)は、首のところに大けががあって、ばっくりと傷口が現れていた。

それに同情して、なんとかしてやりたいと思うこころと、ああ、具合が悪くなっていくのを見たくないなあという残酷なこころと、それから、もしかしたらこの傷は茶トラがやったんじゃないか、それでも茶トラ(強いから)に付き従うのが得策と判断しているのか、そうでないと生きていけないさらなる残酷さが野生なのか、そういうことを考えて憂う日々だった。

 

えさやりは、かなり気が重い作業になってきていて、さらに、家族がそうやって猫がわらわらとやってくるのはよろしくないと前にも増して反対した(一番多い時には、3匹のお友だちを連れてきた)。

 

自分でも、えさをやり始めたことへの後悔が大きくなっていった。断腸の思い(のつもりだったが、もしかしたら重いものを降ろしたくなったのかもしれない)で、きっぱりとえさをあげるのをやめることにした(まったくもって絵に描いたような(字に書いたような)身勝手な行為だという自覚はあった)。

やめるという行為は、何事においてもだけれど、始めるときよりも多くの、そして大きなエネルギーが必要だ(言い訳)

さらに、「〜しないでいる」という「無作為の作為」もまた努力を必要とするので、結果的に「えさをあげるのをやーめた」というひと言の中には、二重三重の悩み苦しみ後悔などが渦巻いているのだった(言い訳)

もうノラ猫はこりごりだ、金輪際かかわらないとこころに決めた。

 

半年が過ぎた。その間、母が亡くなり、いろいろなことに忙しく、茶トラが来ているかどうかもあまり気にしなくなっていた。

 

茶トラは来ていなかったと思う。来ていたら小さな小さな庭のどこかで会っていたろうし、気づいたと思う。

 

半年後、真冬の寒い寒い早朝、ひょっこりと茶トラはいた。

 

何も信じないような強い目つきは、あのころとまったく変わっていなかった。ただ、ちょっとだけお茶目な気持ちが表情に現れていて、

「ちょっとでもなんかくれないかなあ」

とおでこ(猫の場合は額)に書いてあるようだった。

 

母は、えさやりに反対していた。けれども、今度こそは(変な言い方だけれども)、きっぱりと、えさをやることに決めた。

 

あのときにつらくて捨ててしまった受け皿とは別のもっといいやつに、うちの猫のドライフードを心持ち、前より少なめに入れて出した。

離れた場所、茶トラが安心して食べられるような薬草のそば、レモンバームの下に。

 

なんどもなんども、うちの猫その2(家の中で暮らすということ)にならないか茶トラとじっくり話し合った(目つきのみ)のだけれど、決してこころを開いてくれるそぶりはなく、いままでかなり人間に対して、つらい経験があるのだろうと察せられることと、野生生活はそれなりにそれなりで、生まれてからずっとそうだったのだから、無理にイエネコにさせられない(気が強い&短い、すばしっこい動き。とってもじゃないが、家のなかであれだったら大変。うちの猫が生きていけない)ということで、つかず離れず、お互いに干渉し合わない取り決めとなった。

 

慣れてくれなくていい、ただ、いる、元気でいてくれるだけでいい、とそういうふうに心が決まったので、二人とも(一方は猫)離れているけれども安定した関係を築いている。

去勢とか避妊とかはされているようで、なにかあったらいけないので、獣医さんにも相談したりしてみたが、あとは本人の好きなようにさせてあげたい。

 

最近、毛づやがよくなって、相変わらずやせているが、目つきもやさしくなって(家族に言わせるとわたしにのみ)かわいい(そういうのはひとりだけ)顔つきになってきた。

 

以前は、ゴミ集積所の網のカゴのなかに落っこちて暴れていたりした目撃情報があったが、そういうこともなくなった(と思う)。

 

ただ、ひとつ気になることがあって、これは最初のころからなのだが、もしかして、別宅があるのではないかという疑惑だ。

向こうもうちのことを別宅と思っているかもしれない。

というのは、毛づやはともかく、最初から茶トラはわりときれいなのだ。目やにはあるものの、足も汚れていないし、どこかで世話をされているような、なんとなく人の手が入っているような、野生というよりもどこか公園のような。

 

同じ時間に、来ていたらドライフードを用意するのが取り決めなのだが、ときどき来ない、あるいは遅れてくるときがある。

土日は、こないこともある。サラリーマンの浮気のようだ。

どこかに別宅(本宅)がある疑惑は、濃厚だ。

 

 

 

冷蔵庫が壊れる日々。

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冷蔵庫が壊れた。

修理代、28000円( ̄◇ ̄;)。

 

この冷蔵庫は、実は、7年ほど前に、買ってから2年ほど経ったあとで、突然壊れた前任冷蔵庫に代わってやってきた、代替冷蔵庫だ。

 

前任の突然の壊れ方はあまりもう覚えていないが、誰が見ても致命的(冷えない)で、修理といってもモーターでしょ、といったような冷蔵庫の根幹部分だったし、もっというと、そういうのはまだ壊れるのには早いでしょう、いくらなんでも、と思った記憶がある。

●芝の冷蔵庫で、執事剛健なシンプルな形と機能が気に入っていたし、なにより電気屋の5年保証に入っていたから、即修理と思っていた。

 

らば、あっけなく、交換しますということになった。

 

考えるに、もしかして(ほんとうにもしかして)初期不良とかなにかこのロットに致命的な欠陥があるんじゃないのと思わせるくらい、さっぱりした対応で、瞬く間に、新しくて(新品\(^O^)/)ちょっと新しいモデルが来た。

 

の もつかの間、実は、このモデル自体がもしかして(ほんとうにもしかして)欠陥モデルだったんじゃあないかと、その後、気がつくわけだけど、とにかくちょい ちょい壊れるので、5年を過ぎたあとは自費修理になるし、ここ最近は部品の交換もエスカレートしてきて、モーターと外側以外はすべて移植したような、もと の内容とは違うマシンになった。

 

そして、床を水浸しにした悪夢(何回もやってる前科がある。直ってないってこと)、水漏れの激しかった今回は、最高値を記録した修理代金。

 

「できるだけのことはやったし、いっぱい取り替えたし、また具合が悪くなったら、もう終わりッスね」

 

もう修理に来てくれるお兄さんとは、顔見知り?だし、はっきり言って、冷蔵庫のことにもけっこうくわしくなってしまった。

 

この人は毎度、一生懸命に修理してくれるし、いい人だと思う(思いたい)。

 

やっぱり世間で言うところの出来の悪いものには愛着がわく?わかない?

ここについて。

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忘れっぽくなって、忘れっぽいというようなかわいい表現ではすまなくなってきて、一日が過ぎると、きのうなにをしていたのか、おとといどんなことがあって、どんな風に思っていたのか、覚えていないことが多くなっていて、手帳に記入しようにもさかのぼれない。いま、ここに「しか」いられないような、マインドフルネスのような(違う)、集中して充実して生きているのさ、と思いきや、まったく逆で、さみしいような複雑な今日この頃。

 

そのなかでも、一瞬、あ〜これは記憶に留めておきたいと思うことがある。いまもう頭の中からこぼれ落ちていってしまうその前に、すくってしまっておきたい一瞬。
 

 

しまっておいて、あとでふと勝手に出てきてしまうというよりは、ていねいに風呂敷のようなものでくるんだ包みを、そっと開けて見るような、そういう記憶。

 

そういうものを少しずつ、書き留めていきたい。

 

だれも読まないという前提で、でも、密かにどこかでだれかが読むかもしれないという。

知らない人として。